2010年09月21日

翻訳

一般に翻訳とは,ある自然言語の語・句・文・テキストの意味・内容をできるだけ損なうことなく他の自然言語のそれらに移し換えることをいうが,とくに文学作品の,ある自然言語から別の自然言語への移し換えをいう場合もある。

また,翻訳という言葉は翻訳の行為・活動・過程を指すこともあれば,翻訳の産物・作品を指すこともある。

なお,口頭で行われる翻訳は通訳と呼ばれる。

 ロシア出身の言語学者 R. ヤコブソンは,翻訳を,
(1)言語内翻訳(同一言語内での言換え),

(2)言語間翻訳(ある自然言語から別の自然言語への移し換え),

(3)記号系間翻訳(自然言語を別の記号系に置き換えること)の3種に分けたが,この考えは(2)の言語間翻訳に還元される翻訳の一般通念を打破して,翻訳というものが言語の本質にかかわるものであることを示している。

この翻訳の概念に基づいて意味の定義も導き出され,それは言語学のみならず文化記号論にも採用され,その発展に貢献している。

 翻訳の最も典型的なケースと見なされているのは(2)の言語間翻訳であるが,それは(1)の言語内翻訳の際の媒介言語が同一の自然言語で話し手・聞き手双方にとっておおむね透明であるために翻訳が意識されないのに対し,(2)の場合には異なった自然言語の間で不透明性が意識されるからである。

したがって,翻訳の本質を明らかにするためにはやはり(2)の機構の解明から出発するのがよい。

 翻訳は何よりもコミュニケーションとして理解されなければならない。

コミュニケーション図式にすると,話し手は自分の言語(コード)を用いて文(メッセージ)を作り(コード化),それを聞き手に送る。

聞き手はその文(メッセージ)を受け取ると,それに自分の言語をつき合わせて解読し了解が成立する。

これをコード解読,コード変換などというが,それらも翻訳にほかならない。

話し手,聞き手が同一言語を使用するときにはこのプロセスは自動的に行われてしまうが,両者が異なった自然言語を母国語とするときには,〈desk(英語)→机(日本語)〉というようにコード解読・コード変換が意識されるようになる。

たとえば,英語を母国語とする送り手が英語で文を作り,日本語を母国語とする受け手に発信すると,後者は送られてきた英文に,desk→机,chair→椅子,等々といった暗号解読表をつきつけることによってこれを解読する。

もちろん,熟達した翻訳者においては,これは母国語の場合のように行われてしまうのであるが。

しかし,翻訳は了解ばかりでなく,翻訳言語による〈再表現化〉(ロシア文学の父,A. S. プーシキンがすでにこの概念を用いている)の作業をともなっている。

すなわち,翻訳者は原語テキストの読者であると同時に,翻訳テキストの受容者たちにとって原作者の代理,あるいは新しい作者として登場することになるから,先に挙げたコミュニケーション図式は翻訳者を接点にして,原作者→原語テキスト読者/翻訳者→翻訳テキストの読者,というように二重化されるのである。

ここではいかに原語に熟達した翻訳者といえども,しばしばなんらかの困難に出会わずにはいられない。

それは,いうまでもなく,原語と翻訳言語が異なる構造をもち,異なった文化を背負い込んでいるからであるし,さらに,それら両言語間の対応が,それぞれ固有の人生経験をもつ原作者と翻訳者の間で複雑に屈折されるからである。

原語の文化には存在しても翻訳言語の文化には存在しない〈固有風物〉(あるいはその語彙(ごい)。レアリア realia という)の翻訳などは,翻訳者が苦渋する端的なケースである。

かりに翻訳者がそれを現地人同様によく知っていたとしても,彼がそれを翻訳の受容者が適切に受容できるようにうまく翻訳できるとは限らない。



Posted by 犬塚 ツメ at 03:20